原点の医療

一開業医だからできること

総本山知恩院発行『知恩』平成七年十一月号に寄稿したものです。

“医学”とはサイエンスである。仮説を立て、さらにそれを実証することの丹念な繰り返しである。そこには“カン”とか“サジ加減”という、あいまいなものが入り込む余地はない。“医学”は、どんどん細分化している。人体臓器を機能別に細かく分類し、細胞を顕微鏡で調べ、さらに電子顕微鏡を使って分子のレベルで解析するまでに進歩した。

しかし、精神の分野はといえば、肉体的な取り組みにくらべると、その病理の解明はなかなか進んでいない。この問題を、医師の力だけで解決をすることは難しい。哲学者、宗教家、法律家など、さまざまな分野に携わる人たちの積極的な参加が必要である。本来、肉体と精神がうまく調和しないことには、真の健康を維持することは難しい。どんなに肉体を細かく切り刻むことができるようになったとしても、“医学”にも限界はあるのだ。冒頭で、“医学”には“サジ加減”が入る余地がない、と書いた。しかし、“医療”の分野になると少し話が違ってくる。

“医療”とは、苦痛を軽減したり、細菌を抗生物質でたたいたり、癌細胞を切り取ったり、カウンセリングをしたり、患者さんに対して行われる全ての行為を示すものである。そこには名人芸的な“サジ加減”も必要になる。こと目の前の患者さんに対しては、サイエンスとしての“医学”の限界を越え得る余地がある。従って、“医学”“医療”の境界は明確に分けられる必要があるのだろう。

ところが、現在の医学界には厳密な意味での境界がない。大学病院を頂点とした巨大なピラミッドが形成され、“医学”“医療”の双方に大学病院が君臨する形になっている。これは少し問題があるような気がする。

そのピラミッドの構造の中に、細分化された診療科がある。内科や外科といった分類の下、各臓器別に、神経内科、呼吸器科、循環器科、消化器科、血液科など・・・、数え上げれば切りがない。このような専門的なアプローチも大切ではあるが、病気の人間の肉体を、精神面も踏まえながら全体的にとらえていくことも必要ではないだろうか。

医学界の現状は、日本という国の現状によく似ている。大学病院を頂点とした医学界のピラミッドも、官僚制度という大ピラミッドの中に組み込まれているに過ぎない。

官僚制度化の“医療”が抱える大きな問題点として、点数制を基本にした保険診療制度が挙げられる。物に対して認める価値を、目に見えないサービスに対しては、なかなか認めようとしない。その結果、検査で何点、薬を出して何点という計算に立って報酬を請求することになる。現行の制度では、3分で診察を終えても、3時間の手間暇をさいても、点数に変わりはない。それより薬を出す方が手っ取り早く収入になる。そこで悪名高い《薬づけ3分間診療》となってしまうのだ。

自覚症状が少ない糖尿病の治療の難しさについて、ある本にこんなことが書かれていた。

糖尿病で治療をしていたのに、いきなり倒れて透析だと言われたのは、はたして患者の怠慢だろうか。それは、やはり医師と患者の両方に責任があるのではないだろうか。
たとえば、この人は糖尿病性腎症の初期の段階で「あなたはもう腎臓が悪くなりかけていますよ。」と医者から告知されていたかもしれない。しかし、それから先の末期腎不全になるまで、つまり透析をしなければならない状態までは、結構時間があるはずである。
これは推測でしかないが、医者は最初に言っただけで、後は何も言わなかったかもしれない。あるいは言ったかもしれないが、食事療法は守らない、何も守らないで、結局この人には何を言ってもしょうがないや、と医師は諦めたかもしれない。・・・

これこそ《3分間診療》の悲劇である。医師はなぜ諦めるのか。それは多くの場合、患者が真面目な“企業戦士”だからだ。会社のため、その会社から支給される給料のため、つまり最終的には愛する家族のために働く。治療のための自己規制に全てを傾注するわけにはいかないのだ。医師は、その“戦士”が持つ真面目さに圧倒され、自覚症状がないだけに厳しい規制を要求できなくなってしまうのである。じっくりカウンセリングをして、規制の裏にある危険の重大さを分からせる必要がある。そのために健康保険には、“慢性疾患指導料”という項目もある。ただしこの“慢性疾患指導料”の金額は、1回二千円となっているのだが、カウンセリングにはどうしても50分はかかる。カルテの山、すなわち待っている患者さんの列に心理的に圧迫されている外来診療の中では、医師の方もどうしても避けたくなってしまうのだ。

このような問題は、現実に日本中の医療現場で日常的に起きている。私は皮膚科医としてここ数年、いろいろな病気で悩む患者さんに対して、「何か私にできることがないだろうか」という自問と模索を繰り返してきた。その中で、頭の毛が薄くなって悩んでいる人や、反対に手足の体毛が多くて悩んでいる若い女性が、案外たくさんいることが分かってきた。しかし患者さんの中には、皮膚科に相談してみても「歳をとれば誰でも髪の毛は薄くなります。気にすることはありません」とか、「その程度の毛を気にすることはありません」などと、医師の素っ気ない対応に失望した人も多いだろう。ここにもカウンセリングを軽視する保険医療制度の弊害がある。

患者さんは治りたいから、解決策を見出したいから医者に通うのである。慰めを聞くために、医者に通うのではない。髪の毛が増える薬が欲しい、あるいはムダ毛が永久に生えないようにして欲しいのである。

毛の悩みを放置すれば、もっと深刻な事態になってしまう場合もある。逆に毛の悩みから開放されただけで、心身ともに健康になることもある。「たかが毛、されど毛」なのである。今の大学病院は「たかが毛」だ。「そんなものを研究しても教授にはなれない」という風潮がある。大学病院は、癌とかエイズとかを研究する所なのである。毛の悩みについては、今までほとんど真剣に研究されてきていない。従ってその治療法についても、めざましい結果を挙げてはいない。だからこそ、一開業医にもお役に立てる余地がある。

私は今、髪の毛のことで悩んでいる患者さんに対して、最新の情報と治療手段が提供できればと思い、全国の皮膚科や形成外科、あるいは産婦人科の医師にも呼びかけて、情報ネットワークづくりを進めている。毛髪で悩むのは、年配の男性ばかりではない。最近では、若い世代にも多い。さらに驚くべきことに、相談者の40パーセント近くが女性である。打ち明けにくい悩みであればあるほど、患者さんとの対話を重ね、心と体からにじみ出る治療の糸口を感じ取るカウンセリングの重要性が増す。私はあくまでも一開業医として、“医学”ではない原点の“医療”に、ピラミッドの外で取り組んでいきたいと考えている。