社会と医療の転換期

業種の垣根を取り払う

総本山知恩院発行『知恩』平成七年十二月号に寄稿したものです。

S医師は、間もなく五十歳になる私より四歳年長の皮膚科医である。お爺さん、お父さんから続いた医者の家系の三代目。医学部を十二年かけて卒業し、その後医師の国家試験にも数回チャレンジ。三十八歳で医師の免許を取得したという豪傑である。このSさん、坊主頭にひげづらにもかかわらず、えらく“やさしい”人なのである。いつだったか、一緒に酒を酌み交わしながら突然、「おやじ、ごめんな」とかつての親不孝を詫びながら、大粒の涙をこぼすのを見たことがある。そのやさしさゆえに、現代医学の抱える矛盾をどうしても見過ごすことができない。本来は、心臓外科を専攻したのだが、健康保険制度のぬるま湯の中で医療に携わるのをよしとせず、その制度からはみ出したところで、脱毛・育毛の専門治療を続けている。こうした硬骨の医師をその枠内にとどめ得ぬこと自体、現在の保険制度が抱える大きな矛盾だと思う。

われわれ医者は、長い間、国の保護のもとに安穏とした生活を送り、一部では特権意識のようなものまで振りかざしてきた。かつては町内に医院一つという地域がほとんどで、病気にかかった住民は、そこに頼らざるを得なかった。

しかし、今では病・医院の数も増え、患者さんが医者を選ぶ時代となった。近い将来、必ず“医者余りの時代”がやってくる。つまり医者も患者さんの立場にたった医療ができないと、患者さんに見放される時代になってきたのだ。

こうした傾向は当たり前のことであり、ある意味では非常に良いことだとも言えるだろう。まさに今は、「本当の医療とは何か」ということが問われる時代の前触れではないかと思う。こうした状況を踏まえ、少なくとも患者さんと痛みを共有できる自分でありたいと思う。

数カ月前、少し自分自身を外側から変えてみることができないかと考え、Sさんのまねをして、突然頭を丸めてみた。初めは少し人前に出るのが恥ずかしかった。そのうち、私が坊主頭にしたことに対する患者さんの反応を、分析したり楽しんだりする心の余裕さえ持てるようになった。一瞬びっくりした顔をする人、わざと知らないふりをする人、「どうして坊主頭にしたのか」とその理由を聞く人など、さまだまだ。

しかし全般的には、私が坊主頭にしたことによって、今まで以上に親近感を持って患者さんが接してくれるようになったと感じている。坊主頭で患者さんの前に出るときの“照れ”が、私の心を素直にし、医者に悩みを打ち明ける時の患者さんの不安な気持ちに少しだけ近づけたからではないだろうか。

外見を変えてみて初めてそのことに気付くということは、「私も知らず知らずのうちに少々エラクなっていたのだろうか」と、少々反省させられた。

気紛れに頭を丸めてみてなんとなく感じたことだが、世の中が複雑になればなるほど、社会と心の健康を維持するために、宗教が担う役割は、しだいに大きくなっていくように思う。

最近、宗教に絡む大事件が跡を絶たない。「人々を救済する」と言いながら、結局は私利私欲に走るニセ宗教家が多いからだろう。弱者を喰いものにする、にせものの宗教は、絶対に許されない。かと言って、宗教全体を頭から否定してしまうと、大変なことになるだろう。

日本には、キリスト教圏やイスラム教圏のような、確固たる国教がないと言われる。もともと日本には神道に言う八百万(やおよろず)の神々がいて、その後大陸から仏教が伝えられ、さらに儒教的な考えも入り、それらが入り混じったまま今日に至っているわけである。憲法には信仰の自由が保証されていて、われわれは何を信じるのも自由なのに、なぜだか世代が若くなるにつれて、宗教心がますます弱くなっていくようだ。

自分の経験をもとに言うならば、人間は非常にもろい存在である。苦しいとき、迷っているとき、辛いとき、どうしても心がぐらぐらしてしまう。この心のグラグラが、精神的にも肉体的にも病気を誘発してしまう。

私自身、若いころにあまり感じていなかった、頭の中にあるものと心の奥に存在する何かとのねじれのようなものを、体力の衰えや社会的責任の増大とともに、実感するようになってきた。我が身の知力や体力だけではどうしようもないものの存在を、認めざるを得ないようになってきた。

そんな“ねじれ”に悩むとき、ふと何かに手を合わせてみたくなる。それが、宗教の原点なのかと感じている。俗っぽい言い方をするならば、宗教とは最もエネルギーを使わずに、心や社会のねじれを乗り越えるための、“知恵”とか“原理”とかに似たものではあるまいか。
 一般に、「医者は病人を相手にし、坊主は死人を相手にする」と単純に割り切られてしまうことが多い。しかし、両者が協力し合って心身ともに健康で楽しく生活できる社会に近づけるよう、コミュニケーションを深めていくべきだと思う。医者と宗教家だけではない、社会と人の健康に携わるすべての職種の人々が、お互いに変な垣根を取り払うことが、まず大切になる。

人間誰しも、いつかは死を迎えるものである。医者も坊主も、役人も商人も、このことだけは平等である。しかし、それを考えるのは、あまり楽しいものではない。どうしても“死”の現実を極力避けて生きていこうと考える人が多いように、自分の“死”すら考えないから、他人の“生命”を大切にできるわけがない。だから、オウム事件や薬害エイズなど、宗教や生命にかかわる大問題が起きてしまうのではないだろうか。

たぶん、今は時代の転換期であり、これから社会も人も目まぐるしい変化を経験していかなければならないだろう。その現実から目をそむけることなく、より多くより広い分野の人々が自分自身に変化を求め、知恵と力を合わせるように努力を積めば、“生命”をより大切にする社会を築くチャンスも訪れるに違いない。