阪神淡路大震災

再び原点へ

総本山知恩院発行『知恩』平成八年一月号に寄稿したものです。

1995年1月17日未明、われわれは大阪・難波の駅前にある、30階建ての高層ホテルの17階の客だった。前夜、道頓堀であおったヒレ酒の酔いも手伝って、熟睡中の出来事だった。

突然、世界が回り始めた。上下や左右の、直線の“揺れ”ではない。まるで回っている洗濯機の中へぶち込まれでもしたように―――もっとも、そのような中にぶち込まれた経験など、一度もないが―――世界がぐるぐると回っていた。

いくら寝ぼけていたとはいえ、何か異変が起きていることくらいは認識できた。しかし、それが地震だとは、これっぽっちも思わなかった。―――たとえば、誤射されたミサイルが運悪くホテルに大当たり―――そんな途方もないことを、実は大真面目に考えていた。自分の置かれている状況がよく分からないままに、“揺れ”が収まるのを待って、再びベッドに潜り込んだ。

何となく、「あれは地震だったのだ」と考えた。「それなら、じたばたしたってどうしようもないや・・・」自分でも、おかしいくらいに落ち着いていた。その後、繰り返す余震には気づかないままに、もう一度浅い眠りをむさぼった。

大阪市内の交通機関は、すべて完全なマヒ状態だった。御堂筋から北浜まで、まるで戦場から逃れる難民のようなサラリーマンの群れの中を、ゆっくりと歩いた。

オフィスビルのガラスが割れて、歩道の上に散らばっていた。その鋭利な破片の先に微かな血液の染みを見つけたとき、「えらいことに出くわしたんだ」と感じ、あらためて鳥肌がたった。

大阪での所用をあきらめて難波へ引き返し、辛うじて無事だった近鉄特急で午後、名古屋へ帰り着いた。名古屋の町並はあまりにいつもと変わりなく、道行く人々はあまりにも平静だった。それがかえって怖かった。体の中に、あの“揺れ”の不快な感覚がよみがえる。「神戸へ戻ろう」。何かをせずには、いられなかった。

当時、私は地元医師会の“副支部長”という立場にあった。その週の週末、とりあえず一存で五十万円の予算を引き出して、段ボール箱四箱分の風邪薬や抗生物質などの薬剤を買い込み、聴診器と血圧計を持って、ワゴン車で神戸へと向かった。二十時間の道のりだった。

高校生の頃に、初めて東京の首都高速道路を見たとき、「これは、いつか絶対倒れるぞ」と思った。しかし、全国各地に高速道路網が張り巡らされていくにつれ、いつしか「この道路は、永遠に倒れない」という気分になっていた。その“神話”が、しっかりと崩れ落ちていた。

神戸市役所を訪ね、医師である旨を告げると、兵庫区と東灘区の保健所で診察を頼まれた。

保健所の薄暗い廊下には被災者があふれ、風邪が蔓延し始めていた。なぜか、ほとんどがお年寄りだった。

聴診器と血圧計だけが頼りの診療だった。鼓膜と網膜にありったけの神経を集中し、心音のわずかな乱れを聞き逃すまい、血圧の異常を見逃すまいと、自分自身を励ました。「これは真剣勝負なのだ」と、気合いを入れた。

現代の医療は、ともすれば高度に発達した―――と、思い込んでいるだけかもしれないが―――医療機器や薬剤に寄り掛かり、患者さんの言葉を“聞き”、体を“診る”ことを怠りがちになる。“数値”ばかりを気にしているうちに、ついつい“数字”に強くなる。かくして、医は算術になり下がる。

冗談はさておいて、三日間にわたる被災地での医療活動を通じて、私は多くの患者さんたちの体に触れながら、言葉に耳を傾けた。患者さんの多くは、震災のショックとこれからの暮らしの不安におびえ、心を病みかけていた。だからあの時もやはり、投薬よりも十分な対話を心掛けた。誰もが、それを望んでいた。

現場では、全国から駆け付けたボランティアの医師たちが、文字通り寝食を忘れて働いていた。熊本からやって来たという髭面の壮年医師は、白衣の背中に赤マジックで十字のしるしを大書きして、被災者の期待と信頼を集めていた。同じ医師の目で見ても、頼もしそうに映った。「あの“赤十字”こそ、われわれ医師が背負うべきものなんだ」。私はまた、“原点”について考えた。

やむにやまれぬ感情からしたことだ。何も“善意”を気取るつもりはない。そのうえ、被災者の皆さんから医療の“原点”を教わったのは、またまたこちらの方なのだ。

聴診器を一本だけぶら下げて、医療の“原点”に立ち返ったとき、医師の力の限界が見える。しかし、本当の医療とは、そこから始まるものなのではあるまいか。「何もできないけど、何とかしたい」。だから、目の前の心と体に問いかける。

―――私に何ができますか―――。

大震災で廃墟と化した神戸の街は、高校生の頃に漠然と感じた「無常といふこと」を、いやというほど思い知らせてくれた。だがしかし、無常の中にこそ、新しい明日は宿るのだ。神戸の患者さんたちの視線を受けて、私はそのようにも確信できたのである。